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神紋_春日神社

弘法大師空海

弘法大師冬籠遺跡

弘法大師冬籠遺跡

弘法大師空海は、平安時代初期の僧であり真言宗の開祖です。唐の都、長安に留学され青龍寺の恵果(えか)に学び帰朝して高野山金剛峰寺を開かれた。後に大僧都に任命されるこの高僧は、日本各地に様々な伝説を残しているが、当社にもその伝説を残している。

古来、当社には役の小角(えんのおづぬ)が開基といわれる医王山宗福寺という神宮寺(神社に付属して建てられた寺院)がありました。唐から帰朝した空海上人は大同二年(八〇七年)和泉国槙尾山施福寺に移られる。その後大同三年(八〇八年)冬、この宗福寺に移られて一冬を過ごされた後はこの縁に因んで「冬堂」と称されるようになった。

この伝説は現在まで伝えられ、旧参道にかかる冬堂橋に今も名を残す。伝説の真偽は不明だが、文永二年(一二六五年)の銘のある冬堂の梵鐘が現在もかつらぎ町にある北辰妙見神社に現存している。

弘法大師空海 年表

0歳

宝亀五年(七七四年)

讃岐国多度郡にて誕生する。幼名は真魚(まお)。 

14歳

延暦七年(七八八年)

この頃、奈良の都に出て母方のおじ阿刀大足(あとのおおたり)について儒教を学ぶ。

17歳

延暦十年(七九一年)

大学の明経科に入学する。

19歳

延暦十二年(七九三年)

やがて、大学で学ぶ学問よりも仏道の修行に心を向けるようになり、大学を中退する。この頃、私度僧となりある沙門から「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)を授かる。阿波の大瀧岳や土佐室戸岬の御蔵洞などで修行する。この年、和泉国槙尾山施福寺にて沙弥戒を受けたという言い伝えがある。

23歳

延暦十六年(七九七年)

儒教、道教、仏教の三経を比較した『三経指帰』(日本初の比較思想論)を著す。

30歳

延暦二三年(八〇四年)

留学僧として、遣唐大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)の船に乗り難波の港から唐への旅に出る。四船団で出航したが、唐にたどり着けたのは、空海の乗る第一船と最澄の乗る第二船のみ。長安の都に入る。

31歳

延暦二四年(八〇五年)

  西明寺に移る。青龍寺の恵果(えか)の名声を聞き訪ねると密教第七祖である恵果は空海がすでに過酷な修行を積んでいることを見抜き密教の伝授を始める。胎蔵界、金剛界、伝法阿闍梨の灌頂を授けられる。

32歳

大同元年(八〇六年)

帰朝し九州の大宰府に滞在する。「請来目録」(中国へ渡った僧が日本へ持ち帰った仏典などの目録書)を朝廷に奉進する。

33歳

大同二年(八〇七年)

和泉国槙尾山施福寺(和泉市)に移る。

34歳

大同三年(八〇八年)

古来当社には、役の小角(えんのおづぬ)が開基といわれる医王山宗福寺(いおうざんそうふくじ)がありこの年、空海上人が一冬を籠られた後は冬堂(ふゆどう)と称するようになったという伝説が残る。

35歳

大同四年(八〇九年)

京都の高雄山寺(後の神護寺)に移る。最澄から密教経典一二部の借覧の要請がある。

36歳

弘仁元年(八一〇年)

奈良東大寺の別当(べっとう 大寺に置かれた長官)に就任する。

37歳

弘仁二年(八一一年)

乙訓寺(長岡京市)の別当に就任する。

42歳

弘仁七年(八一六年)

高野山の開創に着手する。これが高野山金剛峯寺のはじめといわれる。

47歳

弘仁一二年(八二一年)

弘仁九年、決壊し復旧が遅れていた讃岐国の満濃池を、わずか三か月で修築を果たす。

49歳

弘仁一四年(八二三年)

嵯峨天皇より東寺(京都市)を賜る。現在も講堂に密教の立体曼荼羅を残す。

53歳

天長四年(八二七年)

大僧都(だいそうず)に任ぜられる。

54歳

天長五年(八二八年)

役人以外でも入学できる庶民のための学問所である綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)を東寺に創設する。

56歳

天長七年(八三〇年)

『秘密曼荼羅十住心論』(空海の代表的書物のひとつで人間の心を十の段階に分けて真言密教の体系を述べている)を著す。

58歳

天長九年(八三二年)

高野山に帰り、穀物を絶ち禅定の生活に入る。万燈会を開き、「虚空尽き、涅槃尽き、衆生尽きなば、我が願いも尽きなむ」と想いを表わす。

61歳

承和二年(八三五年)

三月二一日寅の刻に入定し即身成仏をとげる。

延喜二一年(九二一年)

醍醐天皇が生前の行いをたたえ「弘法大師」の諡号を贈る。

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